新町松倉講へようこそ

第5回「松倉祭り」と研修会


 ☆「松倉祭り」と新町松倉講第5回例会の開催

                             平成25年(2013)11月24日

  

 松倉豊後守重政公報恩法要を行う「松倉祭り」と新町松倉講の第5回例会を、今年平成25年11月24日の日曜日に重政公の菩提寺である西方寺で盛大に執り行いました。


 

                      2時より西方寺住職赤松祐光導師により松倉豊後守重政公の

                     報恩法要を、引き続いて新町松倉講の第5回例会を西方寺客殿

                     にて開催しました。参加者は30数名で、本市の市長である太

                     田好紀氏も多忙の中参加してくださいました。例会は大変内容

                     のあるもので好評でした。この例会の内容をもう少し詳しくご

                     紹介しましょう。




「新町と松倉」問答 再販の発行


 まず、槇野久春講元から開会の挨拶があり、このおり平成25

年5月に新町松倉講が発刊した「『 新町と松倉』問答」の再版

発行について説明がありました。再版は旧刊の一部修正を含み、

旧版にはなかった新町在住でアトリエ「虫籠庵」を開かれている

杉本洋画伯の貴重な新町の絵(カラー)を2枚を追加しているこ

と、さらに新町西町で整備が進んだ「商家・大野屋清五郎」につ

いて「ぶらり新町散歩」で新たに紹介していること、などです。



講演会「新町・松倉研究 最近の知見から」    講師 近世史研究家 藤井正英氏 


 講元の挨拶につづき市長太田好紀氏の挨拶のあと、本市の近世史研究家藤井正英氏による講演会がはじまりました。テーマは「新町・松倉研究 最近の知見から」で、貴重な研究の結果がいくつか報告されました。 大きな項目は次の4つでした。



(新町・松倉研究 最近の知見から)

  

  ☆ 新町の商家・大野屋(清五郎)

  ☆ 代官蓑笠之助と松倉家

  ☆ 天誅組の変150年にちなんで

       (新知見)

  ☆ 「研究ノート」史料紹介







各項目 別に簡単に紹介します。



[新町の商家大野屋(清五郎)について]


 講元からの紹介もあった新町西町で現在整備が進んでいる商家・大野屋清五郎宅があります。この大野屋清五郎の墓碑が西方寺にあることが新町松倉講の調査でわかりました。藤井氏は、この大野屋について次のように述べています。「宝暦11年(1761)と推定される反別帳の文書では、中町に清五郎の名があり、これを大野屋清五郎と見なせば、1742年〜1761年の期間に新町村の家持ち住人になったと考えられる。以後、少なくとも明治初年頃までの120年余の長きにわたって、

大野屋清五郎の名を襲名した家が新町で活動していたこと

が確認できる。」これらのことを具体的に古文書を使って

示してくれました。まとめとして、藤井氏は「大野屋清五

郎は、三商売を営んだこと、大野屋清五郎の名を襲名して

商売を続けたこと、表店を構えた土地の所有者(地主で名

請け人)であったこと、組頭にもなっていることなど、新

町住人として典型的な商家と見なせるのではないか」と締

めくくっています。現在、この整備計画は市や県が中心に

なって行っていて、最も最近に住まれたひとの名から旧辰

巳邸として扱われています。歴史の観点から藤井氏は「旧

辰巳邸が近世後期の建物だとすれば、何代目かの大野屋清五郎がこれを建てた可能性は大きい。古文書の記録・墓碑・過去帳・現存の建物などを一体として把握可能な数少ない近世の事例」として扱う必要を指摘しています。私たち新町松倉講としては、この整備中の商家に是非大野屋の名を残してほしいと強く希望しています。




[代官蓑笠之助と松倉家]


 天保6年(1835)から天保9年(1838)の3年間、五條代官所の代官を務めた蓑笠之助(正路)という代官がいます。彼は在任中の天保9年(1838)3月25日に亡くなり桜井寺に葬られますが、彼の祖父にあたる蓑笠之助(正寅)の妻は松倉重政家の出で、松倉彦三郎高重の娘のひとりであることが記録から察せられます。蓑笠之助(正路)が亡くなって間もなくの天保9年閏4月16日、幕府の巡見使役人三人が五條に江戸からはるばるやってきます。その時の五條代官所役人が、巡見使様はもしかすれば二見村の松倉豊後守様の城跡(二見城跡)を御見物なさるかもしれないと言って、新町などは敷砂をするなど道路を整備したとあります。(柏田家文書)この件について藤井氏は「蓑笠之助(正路)が先祖(正寅)の妻(たぶん正路の祖母)が松倉重政家の出であることをよく認識していたことの、その反映ではないか」と指摘しています。蓑家が松倉家と関係があった、親戚であった、ということがわかったのです。

 ちなみに、蓑という姓は、蓑家の家伝に、天正10年(1582)本能寺の変のおり信長の招待で大坂堺にいた家康は身の危険を感じ、少ない供で伊賀路を通って浜松へ逃げますが、その途中、光秀の親戚筋の領地を通らねばならなかったときに蓑家の先祖が、家康を安全に逃すよう「ひそかに渡御あるべしとて正尚(蓑氏の初代)蓑笠をとりてたてまつり」とあり、「浜松に帰御ののちその忠節を賞せられ、上意もて蓑笠之助とめさる」と記されています。




[天誅組の変150年にちなんで(新知見)] 

 

 [河崎なつと天誅組] — 「本城久兵衛日記」の著者は河崎なつの祖父 —

                       天誅組の変の研究で五條居住者による直接の見聞録として

                     「本城久兵衛日記」は大変貴重なことはよく知られています。

                      しかし、その由来については不明瞭でありました。藤井氏は

                      諸史料を検討して、この本城久兵衛は松屋久兵衛であり、五

                      條北ノ丁に居住して書籍商を営んでいたことをつきとめまし

                      た。さらに、びっくりしたことにこの本城久兵衛、五條が生

                      んだ日本の女性解放運動の先駆者のひとりで、市川房枝、加

                      藤しづえ等とともに女性解放の大きな足跡を残した河崎なつ

                      の祖父であることがわかったのです。歴史に詳しいひと

                      ならば、日本母親大会の生みの親であり有名な「母親が

かわれば社会がかわる」のことばを残した河崎なつのこ

とを知らない人はいないでしょう。「本城久兵衛日記」

の著者が河崎なつの祖父であったことの奇縁は驚くべき

ことでした。藤井氏は様々な史料を示してそのことを例

証、検証してくれました。さらに驚くことがもうひとつ

ありました。現在河崎なつの生まれたところに「河崎な

つ生家」の石碑がたっています。この場所に河崎なつの

お孫さんがお寿司屋さんを経営しているのですが、この

河崎なつの生家の道をへだててすぐ前が天誅組の変でよ

く知られている乾十郎の居宅なのです。これもなんとい

う奇縁なのでしょうか。このことは藤井氏がはじめて明らかにしてくださった新知見であります。

 藤井氏は本城久兵衛は、「書籍商を経営する知的環境世界にあって、『本城久兵衛日記』の著者として似つかわしい」と述べています。また、享保年間頃(18世紀前半)には五條「北ノ丁松屋久右衛門」が一定の地位を占めていた、とも指摘しています。 (左 河崎なつ生家 向かって右 乾十郎宅跡)




[『研究ノート』史料紹介] 

  

 五條市内で新たに発見された古文書で、久しぶりの「松倉豊後守様」と書かれた文書が藤井氏の手によって発見されたことを紹介されました。発見された文書は重政没後22年目に当たるもので、この文書の前に、直接関連する慶長16年(1611)11/26付の文書が巻子装に仕立てられており、これは松倉重政が五條二見藩主時代の文書であります。たいへんめずらしい発見でした。こういった発見は、地域に残る貴重な記録をほっておかずこつこつ調査、研究する地味な努力があってこそです。行政の積極的なかかわりと地域の人々の協力がこれからも一層深まることを私たちは期待しています。





「名張青山歴史街道をゆく」ビデオ上映


 最後に昨年12月と今年の1月に名張の放送局で放映された「名張青山歴史街道をゆく」のビデオ上映をいたしました。このビデオには副題がついており「名張の礎を築く松倉豊後守勝重・重政」とされていますように、名張と松倉勝重・重政との深いかかわりを報じています。このビデオ作成時には取材班が五條の松倉重政ゆかりの新町にも来られました。その様子も見ることができます。