新町松倉講主催
「松倉豊後守重政と大坂の陣400年記念」行事 第二弾!
古戦場探訪バスツアー 5月6日 開催
400年前の旧暦5月6日、大坂夏の陣が起こります。五條市の二見城城主松倉豊後守重政は、徳川大和口方面軍の先鋒として大和の武士たちと参戦します。重政は二見城から出陣したと言われており、私達もバスツアーを二見城跡からはじめました。(写真)
参加者36名。2台のマイクロバスに乗り、一路
最初の訪問地郡山城へ。郡山では郡山市のボランテ
ィアガイドの方々により郡山城を案内していただき
ました。郡山城は大和の武将筒井順慶の城、さらに
息子の定次のとき秀吉によって伊賀上野へ転封され
てしまい、その後に秀吉の弟秀長が城主としてやっ
てきます。建て替えられた郡山城門には金色の豊臣
家の桐の紋がつけられておりました。大坂夏の陣の
おり、大坂方はその前哨戦として郡山城を攻め城下
町を焼いています。このときいち早く駆けつけたの
が松倉重政と徳川大和口方面軍の指揮官である水野
勝成でした。郡山のあと大坂方は奈良をも焼く計画であったと言われていますが、松倉、水野の旗指物をみて退却しています。この二人のおかげで奈良は焼失から免れたのです。
郡山城は外から見てもまた内から見ても実にいいお城であると感じました。郡山城ホールで昼食をとった後、いよいよ道明寺前哨戦である後藤又兵衛と徳川軍の激戦地である小松山古戦場へと向かいました。この地では柏原市ボランティアガイドの方々の案内で、私達は4つのグループに分かれてゆかりの古戦場跡を見てまわりました。夏の陣展示の玉手山歴史館、後藤又兵衛基次之碑、大坂夏の陣供養塔、小松山古戦場跡碑、この戦場で戦い亡くなった奥田三郎右衛門忠次の供養塔等々。この戦いで、大和方面軍先陣の松倉重政などの大和の武士の活躍はめざましく、大坂の陣を扱った小説などでその活躍が描かれています。古戦場を訪れることは、400年前の激戦の様子をしのぶのには絶好の機会であると、ガイドの方の説明を聞きながら思ったことでした。この戦いで後藤又兵衛を失ったことは大坂方には大きな痛手となりました。この後真田幸村を中心に全力をあげて徳川本陣へ突入しましたが、もし又兵衛が幸村と二人で行ったとすれば徳川本陣はどうなっていたかと、家康は肌寒く感じたと記録に残されているようです。歴史家の笠原和比古氏は著書「関ヶ原合戦と大坂の陣」(吉川弘文館)で大坂の陣の論功行賞に関して次のように述べています。
「むしろ徳川勢の中で最も高い評価を受けなければならなかったのは、決戦前日の道明寺の戦い
を勝利に導いた水野勝成である。彼の水際だった指揮と獅子奮迅の戦いぶりとによって、真田幸村
とならぶ豊臣方最強の武将である後藤基次を葬り去り、道明寺の攻防戦を勝利に導くのみならず、
基次を五月七日の決戦の場にあらしめなかった功績は絶大と言わねばならない。かくて勝成に対し
ては三万石が加増されて大和郡山城が与えられた(のち、元和五年に備後福山十万石へ加増転封さ
れていく)。勝成とならんで大きな軍功をうちたてたのは松倉重政である。彼は三万石の加増をも
って、肥前島原城へ移されている。」
指揮官の水野勝成が三万石の加増、それと同じ石高が松倉重政に加増されているのです。笠原氏の重政に対する文章はほんの一、二行であるけれども、勝成に匹敵する功績であることはこの文章で十分読みとれるのではないでしょうか。
以上でも分かるとおり、道明寺前哨戦であるこの小松山での戦いは、大坂夏の陣の多くの激しい戦いの中でも特に重要な戦いであったことがわかります。
こんなことを考え、また郡山、柏原両市のボランティアガイドの方々に感謝の気持ちを持って、五條に向かいました。当日参加された皆様、どうもお疲れ様でした。
(文責 来田)
