2015年4月11日開催
松倉豊後守重政と大坂の陣400年記念講演会から
宇智郡はひとつ
1558年の宇智郡(現五條市)「惣郡一揆」
(宇智郡百姓連判状と宇智郡国衆連判状)
去る4月11日(土)に新町松倉講主催で「松倉豊後守重政と大坂の陣400年記念講演会」を五條市市民会館で開催しました。新町松倉講の槇野久春代表の開会挨拶のあと、「戦国時代の大和国にあった共和国」
(宇智郡の人びとを中心に)と題して葛城市歴史博物館学芸員の田中慶治氏が講演を行いました。
戦国時代の宇智郡武士の存在形態を残された古文書
から説明をしていただきました。普段は百姓にみえる
けれどもその実態はれっきとした武士であり、地域で
自治的な連合組織を有しておりかなりの実力をもって
いたようです。
講演の中でもっとも力を入れて解説していただいた
のが、宇智郡に残された二つの古文書で、田中氏はこ
の記録をとおして大和国に共和国が存在したと述べて
おられます。
古文書とは、弘治四年(一五五八)の「宇智郡百姓衆連判状」と同年の「宇智郡国衆連判状」の二通です。これまで宇智郡には惣国一揆などはなかったと言われてきました。ところが、これらの史料がでてきて、宇智郡に「惣郡一揆」とよばれているものが存在したことがわかったのです。これは干魃によって百姓は困っているので、当時最大の金業者であった高野山などの銭主からの借金ができるようにと、こころを一つ(一揆)にして願っているものです。この史料は、大和国の中世後期の宇智郡を知ることができるだけでなく、この地域には惣国一揆などがなかったと考えられていたので、その意味で日本歴史上の大変貴重な史料であると田中氏は指摘しました。
直接に大坂の陣や松倉豊後守重政につながる講演ではなかったのですが、宇智郡における中世後期から近世への歴史や武士の状況を知ることは、松倉氏が五條二見城に入城し、当時この地域の武士たちとどのようにかかわっていたかの一端を知る上で必要なことだと感じました。このことで田中氏は、一つの古文書を解説してくれました。「豊後守知行所内出作之免相ノ事」(奈良県立図書情報館蔵)です。これは地域の庄屋からだされたものですが、その中に「豊後殿御知行云々」と書かれており、豊後は松倉豊後守ですが、殿というのは同輩か対等の者に使う言葉で、普通は様を使うと田中氏は指摘します。つまり、ここから読み取れることは、庄屋といってもれっきとした武士であり、松倉氏に対して対等のものいいをしているということのようです。これは田中氏の見解です。
古文書を通しての宇智郡の中世期末から近世初頭の権力状況が大変よくわかり、いい勉強の場になったと思います。田中先生、ありがとうございました。 (文責 来田)
