新町松倉講 第10回記念講演会 (1) 概略
『新町・松倉像 ー 今昔10年 ー 』 藤井正英氏
近年10年余の間における新町と松倉像の変容についての報告で、二つの部分からなっています。
(1)新町についての新知見
(2)松倉重政像
以下、それぞれの概略をまとめて
みます。
(1)新町についての新知見
A 五條二見藩の消滅
B 伝馬(馬借)所の運営
C 五條代官所設置
D 五條県の成立
などの局面において、様々な運動を展開し、地域の振興に決定的な役割を果たした住民の姿をリーダーや住民の活動に視点をあて、新町についての新知見として以下の7項目について話をしていただきました。
1. 馬借(伝馬)所にかかる訴訟による闘いを展開した(於江戸の評定所)
2. 「本陣」としての機能
3. 陣屋元村としての繁栄
4. 下張り文書により具体的な家族像が判明(個人所蔵による古文書から)
5. 大野屋清五郎=典型的な近世の新町村住民
6. 江戸時代の地域の知力
7. 高札とキリシタン禁制の実施
(2)松倉重政像
十数年前、松倉重政の評価に関連して町おこしの運動を実施するに際しては、三点の課題に直面していると考えた。
・第一の課題 新町、松倉重政に関わる基本的文献・史料の収集や分析が急務
・第二の課題 松倉重政像に関して、世評への国民的歴史小説家司馬遼太郎の影響
が大。教科書の記述・島原の乱への通念・思い込み、これらへの対処。
・第三の課題 島原の乱、鎖国、キリシタン禁制は江戸時代全体や日本文化の総体
の理解に関わる大きな問題、また世界史的意味の把握の必要性。
(第一の課題について)
この十数年で果たされた(講演・『四〇〇年記念誌』・展示会・『問答』・行事など)
(まとめ) 近年では、少なくとも奈良県内においては、新町住民による頌徳の事実
を抜きに松倉重政を語れなくなった。しかし、一方では小説としてのフィ
クションのはずが周知の史実として諸説の一つであるかの如く語られる現
状が見られる。
(第二の課題について)
大坂夏の陣の実際の活躍と司馬遼太郎の文学作品上における松倉重政像との対比
(1)近年の歴史学書の史的評価
笠谷和比古著「関ヶ原合戦と大坂の陣」(吉川弘文館 2007年)
(2)司馬作品中の大坂の陣
「軍師二人」、「城塞」、「新訂寛政重修諸家譜」(松倉重政) を比べて
(結論) 司馬の小説化の手法は人名・場所・時・事件の史実の断片を切り貼りし
て(脈絡から切り離して)、あるいは意味を変えて自分のイメージする
人物像、事件像を創作する。松倉重政の夏の陣の闘い振りの悪役的描写
は、後藤又兵衛・真田幸村らの英雄像の引き立て役として、更に島原の
乱のイメージが先験的にあって、それが投影され、造型されたのではな
いか。徳川家康、新町村「由緒記」、現代の歴史学などの高い評価に対
して、司馬は敢えて史実と異なる夏の陣の松倉重政像を創作したのであ
る。ということは、司馬作品のメリットもデメリットも見えてくる。た
だ、司馬遼太郎が創作した松倉重政像の社会一般への影響は大きい。島
原の乱は松倉重政が存命中の事件だと誤解・誤謬を生み出すもとにもな
っている(死去してから7年もの後)、小説で描かれたイメージは周知
の史実では決してなく、歴史像とは別次元のものである。
(第三の課題について)
島原の乱=島原・天草一揆 : 専門書と教科書の記述の変遷
(1)岩波講座「日本史講座」第一次(1930年代)〜 第五次(2010年代)の刊行
の記述内容
(「日本史講座」の記述の変化)
・1970年代 松倉氏、寺沢氏による重税を主因とする農民一揆論が定説化。
・2010年代 <立ち返り>キリシタンを中心とした宗教一揆であったという
認識が定着。
(2)教科書の記述の変化(山川出版社「詳説日本史」の島原の乱の記述の変遷)
1987年検定本 〜 2012年検定本の記述の検討
(まとめ)
・反乱の主体について
牢人を含む農民一揆から土豪・百姓の一揆へ
・反乱の原因
苛酷な年貢の課税、キリスト教徒の弾圧の両側面については変化がない。
飢饉も背景の一つとされるようになる
以上(1)新町についての新知見、(2)松倉重政像 のまとめとして
・十年以前とくらべて、新町、松倉重政像がかなり深化したと考える。
・歴史的事件や人物の評価や意義は、研究の進展・物差し・社会的背景の違いに
よって変化する。
・新町や島原城下町を建設したのは松倉藩であるという事実は動かない。
・これから先の十年間でのさらなる変容を期待したい。
(今後の課題として)
・島原藩時代の松倉藩政の実証的な研究の進展。
・西洋の宗教改革、農民戦争、旧教と新教の対立などを視野に入れた世界史的な
位置づけ
・国家による禁教政策の国内的意味と意義
以上は、写真、文とも、当日講師のほうからだされたレジメをもとに、来田がまとめたものです。責任はすべて来田にあります。さらに詳しいものについては、今後検討したいと考えています。